脳 内

ひたすら雑記、大事なことを忘れないようにメモする場所です

肌に触れるデジャヴは夏

ひとりごと

 

 

12月、店内に響くクリスマスソングに辟易する季節。南半球では夏を意味する。

 

徒歩20分の出勤中、風とか太陽とかがだんだん移ろっていくのを日々感じてしまったりして、たしか1ヶ月ほど前には「なんだか風が夏の匂いになってきたな」と思った記憶がある。

そしてたしか1週間ほど前、「さてはこれもう完全に夏の空気に切り替わってるな?」と気づいてしまったつもりでいた。

しかし今日、「いやこれ、いよいよもっと完全に夏だ」なんておかしな日本語で考えた。

 

誰がなんと言おうとこの空気とこの世界観は夏の感じだと思った1週間前の私、甘々だ。今日こそ夏だ。というか多分昨日もそうなんだけど。

 

なにも、日々気温が上がってきているとか汗をかく量が増えてきたとかそういう数値的・視覚的な話ではない。

まず、これまでの人生で年に1度は通る羽目になってきた夏というゾーンには、それぞれの年で違う色の記憶がある。

その、全・夏の記憶が持つ色を混ぜ合わせたものを夏とみなしているという感覚が根底にあることが重要だ。

 

例えば、暑くてつけた扇風機の風のぬるさも、1日たりとも同じ温度ではないだろうけど、私の中で扇風機の風はぬるいという事になっている。

夏の夜の涼しさが秋の夜の涼しさと全く違う質感なこともそうだ。要するに私の人生が勝手に組み上げてきた主観であり、言葉にできるようなモンじゃない。

肌に触れる、耳に届く、なんでもない何かの集合体が私にとっての夏だ。

 

どれでもないけど、これ知ってる。そんな瞬間が本当に唐突に訪れる。

これ夏だな?と思う感覚は、デジャヴに似ているんだ。

 

数字的にも体感的にもわりととっくに夏なのは確かだけれど、それでもなお毎日どんどん夏になっていることに、感動したり疲れたりを繰り返す。

そんな感覚に何度も飽きがきている私の気も知らないで年1で夏が来ることも、200万年後くらいには当たり前じゃ無くなってたりするのだろうか。

 

 

話がどんどん脱線していくが、ついさっきの私が何を書き留めておきたくてスマホを手にしたかは忘れないうちに書かなくてはならない。

 

つまり私の思う「完全」を1番疑ってかからなければいけないのは私だということで、

季にしろ機にしろ時にしろ、何かが満ちたと思った段階って大概まだ満ちてない。

 

昨日満月かなと思ったら今日の方が満月だったりして、本当は明日が満月かもしれない。

目に見える月でさえ、満ち切った瞬間とかけ始める瞬間は案外よくわからなかったりするのに、

もっともっと曖昧なはずの私の感覚をうっかり信じ切ってしまうのは何故なんだろうか。

きっと今日よりも明日の方が夏なんだろうなって事になかなか気がつけないのは何故なんだろうか。

 

自分を信じる強さを尊ぶ人生より、自分を疑う弱さを切り捨てない人生の方が私は私らしくいられると思った、そんな些細な1日ももうじき終わるのが悲しい。この感覚、夏かもしれない。

 

 

 

 

おでん

おでんとの向き合い方と母の話です。

 

 

中学時代は剣道部の厳しい練習に打ち込む日々で、それはもうとにかく腹が減って減って仕方がなかった。

早弁、買い食い、カバンにいつもカロリーメイト、白米おかわり、夜食にラーメン。幼少期は極度の少食がコンプレックスだった自分にとってあの3年間は特殊だった。

汗まみれのアザまみれ、暗い夜道をふらふらと帰宅してまず目に飛び込む母の料理。

疲れた身体にはガッツリと肉に米が好ましいけど、あぁ、今日はおでんか...なんて、当時は何の悪気も無かったけれど。

なぜ運動後のおでんには、あんなにテンションを下げる力があったのだろうか。鍋も然り。

まず、熱い汁をちびちび啜るフラストレーションに勝てない。おでんの長所である薄味には魅力を感じず舌が欲するのは中濃ソース。

当時の有り余る食欲に対して、おでんは淑やか過ぎたんだ。

 

 

高校を卒業してすぐ実家を出た。ほどなくして初めて自分でおでんを作り、衝撃を受けた。

手間がかかるのだ。素材ごとの下準備がこんなに必要だなんて思いもしなかった。

おでんを舐めていた。

う〜む、母はいつもこんな思いでおでんを作り上げ、ヘトヘトの我が子が食卓に座るタイミングで暖かいものを食べさす時間計算のうえで用意をし出迎えた果てが、がっかりした私の顔だったと言うのか。

 

おでんと母には、ひどく辛い思いをさせた。

思っていても口に出さない気遣いは家族などには無用と思っていた年齢だ。

もしかしたら今でも母の脳裏には私の声で「なんだよ今日おでんかよ」という心ないセリフがフラッシュバックする瞬間があるかもしれないというのに。

 

自分のような捻くれ人間には滅多に湧かない感情の一つ、純粋な申し訳なさをキッチンで感じた。

親の苦労は肉体も精神も少しは理解して、十分に感謝の気持ちを持っていたつもりではあったが、おでんに気づかせてもらったのだ。

親のことなんて頭で考えただけじゃ理解できないのだから、自らで少しでも多くの経験を積んで視野を広げて生きていく事が、結局は還元になるのかもしれないと。

 

ただ面倒だしその日以来一度もおでんは作っていない。

 

 

 

星守る犬

2011年公開の映画「星守る犬」を観た。

好きとも嫌いとも言えないが、、、考えさせられたことをいくつか。

 

感動の涙というよりは悲しくてスッキリしない涙だったというレビューを読んではいたけれど、

なるほど確かに、私も悲しくて泣いてしまった。

 

あまりにもかわいそうで泣いたという見方もあるかもしれないが、

林の中で飼い犬に看取られながら野垂れ死んだ中年男性が、本当にかわいそうなのかはわからない。

ならば、息を引き取る瞬間に愛犬がそばにいた事で彼は報われたか?それもわからない。

ただ彼が選んだ道以外にも、どうにかする道があったことは確かである。その道を選ばなかっただけだ。

自らの意思で決めた生き方をして死んでいった人の人生が結果悲しいものだったから、それでかわいそうで泣くのか?

なんだかなあ。

きっとこれは自分の身勝手な共感性が生んだ涙であって、その本能と脳が受け取った情報とは別にして考えるべきなのだと思う。

何を伝えたいのかわからなかったという意見も目にしたが、少なくとも私は得たものがあったから。

 

奥津がクロの事を語るシーンの、(失うことを)もっと恐れずに愛すればよかったというくだりが、私にはなんだか後ろめたくて少し刺さった。

ありふれた話ではあるかもしれないが、

改めて奥津の目線を借りることで、素直に理解できた気がする。

人と人、人と動物といった限定的な愛じゃなく、一人の人間が一生のうちに使う愛のことが浮かんだ。

仕事や趣味なんかを愛するときにも、自分の決断の先に何かを失うことを恐れている。

臆することなく前へ進むことなど出来っこないのだけれど、

私にとって人じゃない何かを愛することは、人を愛することよりかは楽に思える。

決断を、自分が取る行動を、愛して生きていけたら素晴らしい。

そうしたい。

 

星守る犬という言葉について。

最終的におとうさんもハッピーも死んでいる。

一人の中年男性の色々あった人生を描いたところで最後は死ぬ。

いずれ失くすものばかりなのに何かを求めるということが高望みなのだとしたら、映画の最後の締めくくりも私はうなずける。

無理やりまとめたとは思わない。

今自分のしていることが死への恐怖と矛盾しているモヤモヤとか、仕方無さとか、まとめられない現実みたいなものがテーマのようにも感じる。

何かしらの答えを求めて観てしまうと物足りないのかもしれないが。

 

生まれてしまったがために死ななきゃならない羽目になるのに、

生まれるという選択肢以外はすべて自分で決めるしかない。

残されたのは、どう生きていくかというドデカい問題点だけだ。

私にとっての漫画やアニメや本やドラマや映画はヒントであり、答え探しではない。

自分の外にあるものを取り込むというだけで十分に意味のあることだと思っている。

だから作品としての批評なんかはできないが、

林の中で静かに死んでいった中年男性、そのそばで死ぬことを選んだ犬、過去を悔やみ新しい一歩を踏んだ青年、

そんな可能性の数々を知っただけでも心の襞が増えた気がする。

 

多様は正義と限らないが、正義は多様だな

私は欲張りな子供だった。当時の自分がそれを自覚していたかどうかは今となってはわからないが、自分自身の言動をネチネチ覚えているなんて、達成感かよほどの罪悪感があったからに違いない、と思いたい。

 

文具を整理していて出てきたひとつの小さな付箋、といっても本当に小さいもので、親指の第一関節ほどの大きさなのだが、これを見るたび思い出す記憶がある。

小学生がそうなのか、女の子がそうなのかは定かでないが、私にも友達とお気に入りの便箋やシールなどをやたらと交換した年頃があった。

より仲の良い子からはよりお気に入りのものが貰えるのだが、お互いに一番のお気に入りは絶対に渡さずに大事な場所にとっておいたりする。

この小さな付箋も当時の友達の一人から貰った物だ。

何かと交換というわけでもなく、ただ私が羨ましがって手に入れた物なのだが、その記憶の中の私がまあ嫌な奴で仕方がない。

エロ漫画でしか馴染みのない”物欲しそうな顔”という響きがいやにしっくり来る表情で友達の手の中の小さな付箋を見る私に対し、「あげようか?」と微笑む彼女はとても気弱そうだ。

 

嫌々譲ってくれたのか心底どうでもいい付箋だったのか実際はわからないが、いっそ戦って奪い取ったくらいのほうが清清しい思い出になっただろう。

察してほしい・汲み取ってほしい・望みを叶えてほしい、といった感情が自分の中にあることに気づくとひどく自分に腹が立つ私にとって、幼少期、つまり人格形成の未熟な時代の言動でさえ、自分の本質的な傲慢さに触れるとやるせなくなってしまうのだ。

とはいえ、そんな過去の自分の些細でごまんとある自己嫌悪案件を許せないなんて事はなく、大抵のことは私基準の時効というものを迎えてゆくのだが、現在と未来の自分に対する猜疑心が生まれることになる。

他人の目を気にして生きているようで、自分の目を気にして生きているというよくある落とし穴だ。

 

完璧主義で自分に厳しい人ほど周りに求めるハードルが高いという話もあるが、私の考えではそうではない。

自分に厳しく、正しくは、身の丈に合わない理想を自らに押し付けてしまいながら生きていると、自分が自分の期待に応えるのは非常に困難だ。

理想が高いほどその落差は大きく、結果的に成功体験の割合が少なくなっていきフラストレーションは溜まる一方。

マイナスをプラスにする為、自分の欠点や失敗を見つけ出すことに躍起になり、人から認められることがあっても素直に喜びづらくなる。

そんな状態で周りが高いハードルを超えることを期待するのは心が傷んでしまう。人生に失敗はつきものだと自らが証明しているのだから。

そうやって自分の失敗ばかり見て生きていると、他人の失敗を非難できる程の自己肯定力など無くなり、そして周りへの関心がより薄れていく。やがて他人の失敗などどうでもよくなるのだ。

 

周りへの期待値が高い人は、自分に見合ったハードルをそこそこに掲げ、いつもギリギリで超えてきた人なのではないかと思う。

自分で設定した合格点に満たない場合のデータが少ない時、「この人はこんな事も出来ないのか」などと考えてしまうのではないだろうか。

自分に勝てる人間も、勝てない人間も、外から見たら成果は同じかもしれない。

それを成功と呼ぶか失敗と呼ぶかは人それぞれなだけで、意外なところで何かの役に立っていたり、反対に足を引っ張っていたり、案外誰の記憶にも残っていなかったりするんだろう。

 

学歴、資格、実績、収入、顔面偏差値、なんて便利なんだろうか。

どこで生きていようと、結局この世の中に存在するのは一人の自分と沢山の他人だ。家族であっても、別の個体であることに変わりはない。

全く別物のものさしを持ち寄って不毛な押し付け合いを繰り返すことに、本当は皆辟易しているのではないか。

わかりやすく可視化しランクをつけ、楽に人と関わりたいと思う気持ちも理解できる。

それに、自分に厳しい人間でも、自分の外にあるハードルならば目標として設定しやすい上に超えたかどうかも一目瞭然だ。

 

周りと比べるな、自分に正直に生きろ、優しい言葉にも思えるが、そんなものは茨の道で苦しい生き方なのかもしれない。

いつだって周りと比べて居るほうがよっぽどわかり易い。自分が今どこにいて、何と戦っていて、何に追われて何を追うのか、比較をすることは場合によっては楽をすることと同じだ。

従って、自分の殻に閉じこもるのは逃げることだと断定するのも適切ではないだろう。

 

誰にとって何が楽なのか、何にとって何処が基準なのか、それを理解することは義務でも当たり前でもない。

ただ、自分ではない人間のことを理解しようとする権利を誰もが持っていることに誇りを持つべきだと、今の私は思う。

 

 

私得 夏うた10曲メドレー

今週のお題「夏うた」

 

ジャンル・年代バラッバラの、完全私得夏うたメドレーやりたい。やりますね。

 

目次です。

 

と言いましても、私は現在南半球に住んでいるので冬真っ只中です。

日本の夏季は暑すぎてとてもじゃないけど恋しいなんて言えませんが、

夏という文化はやはり嫌いになれません。

風情っていう響きに弱い、生粋の日本人ですね、どこに住んでいようと。

 

 

 

サザンオールスターズ勝手にシンドバッド

時を経て改めて良さがわかった曲のひとつです。

初めてレコードにこれをかけた時、それまでのテレビで聴いていた印象を覆され、なんてかっこいい曲なんだ!!と純粋に思いましたね。

正直この凄さを全く説明できません。ドッカーンビリビリーーって感じです。

そしてこの後いとしのエリーが世に放たれたと思うとドキドキしますね。 

音の打撃にやられた思い出から、トップバッターに選びました。

 

ピンクレディー渚のシンドバッド

この曲順に多少の意図はありますが、選曲は偶然です。

生で歌って踊るって、本当に難しくて素敵で、人の心を動かすお仕事だなとしみじみ思います。

ピンクレディーさんの歌はどれもハモリが絶妙で中毒性抜群ですよね。一人カラオケで歌えないもどかしさには定評があります。

なかでも私はこの曲の、一番でいうと”くちびる盗む”からの部分がたまらなくて、喉一つでできる表現の幅を考えさせられる、シンプルなロングトーンに痺れます。

 

Otis Redding/(Sittin’ On) The Dock of the Bay

理屈じゃなく良い声っていうのはどうしても存在して、超えられない壁なのかもしれないですね。 

ゴリゴリの夏イメージが全面に出ているタイプではなく、夏のとある日の環境音のような耳馴染みの良い音楽で、雨でも曇りでも目を閉じて聴けばあたたかな日差しを感じられます。

張らない歌声と柔らかいサウンドに包み込まれる、聴くハンモックとでも呼びたい曲ですね(ドヤるな)。

 

山下達郎夏への扉

ただただ山下達郎さんが大好きなので、このテーマで一つ挙げるとしたならば夏という文字も入っているこの曲かな、という選曲です。

イントロで既に良曲の音しか聴こえません。こればっかりは好みというか、私の細胞が喜ぶので仕方がないですね。

この心地よいテンポも、あと少し速かったら爽やかすぎて、あと少し遅かったら退屈なのかもしれないと思うと、作り手の感性に心から感動します。

 

シド/夏恋

まずシンプルにメロディが最高に好きです。全音符(全人類の感じで)から切なさがビシビシ伝わってきます。

そしてなにより情景がはっきり浮かびますよね。後ろを見たら投げ捨てた雑誌がゴミ箱に入っているんじゃないかって気がします。 

助言してくれる親身な友人とも知り合いな気がします。

的確な情景描写とセリフ、シュワッと疾走感のあるビートにそぐわぬ切なくてもどかしい恋…夏~~~。

 

UVERworld/SHAMROCK

切ない歌詞を明るいメロディーに乗せるパターンはいつでも私の中の王道です。

MVはこんなにチャラいのに、ビキニの女と遊んでそうなのに、アゲアゲにラップで韻踏んでるのに、こんなにも夏の切なさを感じられるのはこの唯一無二の歌声だからですかね。

メロディーもさっぱり系で、サビでも力任せに歌い上げず感情をフラットに歌うあたりも最高です。

同じクラスにSHAMROCKがいたら多分カースト上位だしグループ違うけどなんか二人で話してみたら好きになっちゃった感じです(わかって)。

 

Galileo Galilei青い栞

おそらくですが口から夏の風が吹いていますね。

一生胃もたれしそうにない真白な歌声に、ちょっと考察しがいのある歌詞も相まって何度も何度も繰り返し聴きたくなる曲です。

美しい景色に囲まれながら聴きたい曲ってたくさんあると思うんですが、これもその一つですね。

ただ浄化されるだけじゃなく、心に切ない引っ掛かりが残るような、案外複雑な後味がやみつきになってしまうんだと思います。

 

ジミーサムP/Calc.

これも切ない歌詞を明るいメロディーに乗せるパターンですね。

10年前、私がオタク人生の入り口に立っていた頃の曲です。私のキモオタ時代をできる限り爽やかな青春映画にできるならばエンディングでCalc.を流します。

これはなんというか、聴いただけで胸が締め付けられて涙腺にくるタイプの曲ですね。

小賢しさや汚さとは無縁な音楽というものを生み出せてしまう人がこの世には居るんですね~。

聴くとひたすらにピュアになれます。

 

aiko/横顔

歌詞の中に明確に夏を表すものは登場しませんが、私的に夏~~~って感じです。

特にサビの、メロディーはもちろんのことブレスの位置や間隔までもが、どうしようもなく恋い焦がれている息苦しさとリンクしていて、作曲センスに脱帽せざるを得ません。

臨場感があって、歌うと自分も恋をしていると錯覚してしまう気がします。

個人的にドラマのイメージもあってエンディング感が強いので、この位置に。

 

井上陽水&安全地帯/夏の終わりのハーモニー

最後はコレでお別れですわ…

何も言うことはありませんわ…

聴けばわかりますわ…

乾杯… 

 

 

好きな音楽は山程あるけども、いざ夏に絞って考えてみると難しいものですね。特に洋楽を聴くときはあまり季節を意識しないかもしれないと気づきました。

読んでくださった方、ありがとうございました!

 

ねき