脳 内

ひたすら雑記、大事なことを忘れないようにメモする場所です

多様は正義と限らないが、正義は多様だな

私は欲張りな子供だった。当時の自分がそれを自覚していたかどうかは今となってはわからないが、自分自身の言動をネチネチ覚えているなんて、達成感かよほどの罪悪感があったからに違いない、と思いたい。

 

文具を整理していて出てきたひとつの小さな付箋、といっても本当に小さいもので、親指の第一関節ほどの大きさなのだが、これを見るたび思い出す記憶がある。

小学生がそうなのか、女の子がそうなのかは定かでないが、私にも友達とお気に入りの便箋やシールなどをやたらと交換した年頃があった。

より仲の良い子からはよりお気に入りのものが貰えるのだが、お互いに一番のお気に入りは絶対に渡さずに大事な場所にとっておいたりする。

この小さな付箋も当時の友達の一人から貰った物だ。

何かと交換というわけでもなく、ただ私が羨ましがって手に入れた物なのだが、その記憶の中の私がまあ嫌な奴で仕方がない。

エロ漫画でしか馴染みのない”物欲しそうな顔”という響きがいやにしっくり来る表情で友達の手の中の小さな付箋を見る私に対し、「あげようか?」と微笑む彼女はとても気弱そうだ。

 

嫌々譲ってくれたのか心底どうでもいい付箋だったのか実際はわからないが、いっそ戦って奪い取ったくらいのほうが清清しい思い出になっただろう。

察してほしい・汲み取ってほしい・望みを叶えてほしい、といった感情が自分の中にあることに気づくとひどく自分に腹が立つ私にとって、幼少期、つまり人格形成の未熟な時代の言動でさえ、自分の本質的な傲慢さに触れるとやるせなくなってしまうのだ。

とはいえ、そんな過去の自分の些細でごまんとある自己嫌悪案件を許せないなんて事はなく、大抵のことは私基準の時効というものを迎えてゆくのだが、現在と未来の自分に対する猜疑心が生まれることになる。

他人の目を気にして生きているようで、自分の目を気にして生きているというよくある落とし穴だ。

 

完璧主義で自分に厳しい人ほど周りに求めるハードルが高いという話もあるが、私の考えではそうではない。

自分に厳しく、正しくは、身の丈に合わない理想を自らに押し付けてしまいながら生きていると、自分が自分の期待に応えるのは非常に困難だ。

理想が高いほどその落差は大きく、結果的に成功体験の割合が少なくなっていきフラストレーションは溜まる一方。

マイナスをプラスにする為、自分の欠点や失敗を見つけ出すことに躍起になり、人から認められることがあっても素直に喜びづらくなる。

そんな状態で周りが高いハードルを超えることを期待するのは心が傷んでしまう。人生に失敗はつきものだと自らが証明しているのだから。

そうやって自分の失敗ばかり見て生きていると、他人の失敗を非難できる程の自己肯定力など無くなり、そして周りへの関心がより薄れていく。やがて他人の失敗などどうでもよくなるのだ。

 

周りへの期待値が高い人は、自分に見合ったハードルをそこそこに掲げ、いつもギリギリで超えてきた人なのではないかと思う。

自分で設定した合格点に満たない場合のデータが少ない時、「この人はこんな事も出来ないのか」などと考えてしまうのではないだろうか。

自分に勝てる人間も、勝てない人間も、外から見たら成果は同じかもしれない。

それを成功と呼ぶか失敗と呼ぶかは人それぞれなだけで、意外なところで何かの役に立っていたり、反対に足を引っ張っていたり、案外誰の記憶にも残っていなかったりするんだろう。

 

学歴、資格、実績、収入、顔面偏差値、なんて便利なんだろうか。

どこで生きていようと、結局この世の中に存在するのは一人の自分と沢山の他人だ。家族であっても、別の個体であることに変わりはない。

全く別物のものさしを持ち寄って不毛な押し付け合いを繰り返すことに、本当は皆辟易しているのではないか。

わかりやすく可視化しランクをつけ、楽に人と関わりたいと思う気持ちも理解できる。

それに、自分に厳しい人間でも、自分の外にあるハードルならば目標として設定しやすい上に超えたかどうかも一目瞭然だ。

 

周りと比べるな、自分に正直に生きろ、優しい言葉にも思えるが、そんなものは茨の道で苦しい生き方なのかもしれない。

いつだって周りと比べて居るほうがよっぽどわかり易い。自分が今どこにいて、何と戦っていて、何に追われて何を追うのか、比較をすることは場合によっては楽をすることと同じだ。

従って、自分の殻に閉じこもるのは逃げることだと断定するのも適切ではないだろう。

 

誰にとって何が楽なのか、何にとって何処が基準なのか、それを理解することは義務でも当たり前でもない。

ただ、自分ではない人間のことを理解しようとする権利を誰もが持っていることに誇りを持つべきだと、今の私は思う。