「嫌」は私の大切な悪玉菌
ふと頭をよぎった疑問です。
こんな風になりたい、あんな人になりたい、この仕事がしたい
これが”夢”というものだとして、
こんな風にはなりたくない、あんな人にはなりたくない、この仕事はしたくない
これも”夢”?
どちらも未来を思い描いているのだから夢と呼んであげたいですが、
難しいのかもしれません。
日々色んな発見を繰り返して過ごしているけれど、
避けたい目標よりも、なりたい目標を見つけたいなと思ってしまいます。
アレが嫌コレが嫌ってだだをこねた幼少期の記憶なんてほぼ失くした私達が、
またアレが嫌コレが嫌って言いながら生きてるのが、
たまに恥ずかしくなるときがあります。
そしてそういった文句ばかりの人間をみて、
ああはなりたくない…と考えている私は、
また避けたい目標を増やしてしまったことになる。
それを無性に心地悪く感じてしまうのはなぜなんでしょうか。
自分の失敗から学ぶか、他人の失敗から学ぶか、
次に繋げられるならば全く悪いことでは無いのに。
例えば恋愛でも、
「タイプは、背が高くて~イケメンで~頭が良くて~優しくて~」
って思えない。
「人を心で馬鹿にする人、自分の非を認められない人、思い込みが激しい人、視野が狭い人、客観視の苦手な人、以外が良いです。」
とかになっちゃう。口には出さないけど。
プラスの理想よりも、許容できない人物像のほうが日に日に増えていく気がする。
だけど、日常、何かを嫌がる感情だけに支配されたくない。
愚痴を言いたくない。
言い訳をしたくない。
自分のことしか見えてない人生を送りたくない。
物事を考えるときに否定から入りたくない。
些細なことでカリカリしたくない。
…でもこれって、結局はアレが嫌コレが嫌って言ってしまっているじゃないですか。
嫌って思うことが嫌って、思っちゃってるじゃん、みたいな。
こんな堂々巡りの脳内論争に疲れてしまうから、
なりたい目標、プラスの理想に包まれて生きていきたいと、
人の良いところを見つけながら生きていきたいと思うんでしょうね。
かといって、嫌なものを発見しないように生きるなんて無理です。
無理ですし、反面教師や後悔など、ネガティブな経験からは学べることばかりです。
だから、身体から「嫌」 を取り除く必要はない。
ようは溜まったものを、どう処理するかですよね。
それぞれがどう思おうと勝手なんだから、外に放つときに気をつければいいんですよね、きっと。
試しに、先程述べた私のタイプな人を、言い方を変えて説明してみます。
「他人を尊敬できる人、自分の非を素直に認められる人、考えが柔軟な人、視野が広い人、客観視ができる人。」
あら素敵…
でもこう見るとバチボコハードル高いじゃないですか。
普通にこんなの誰だって無理だし。よくよく考えるとそこまで求めてないわ。
言ってる内容は同じでも、ネガティブに書くと ”最低限のライン感” が出るけど、
ポジティブに書くとやたら難しいことに見える気がしますね。
あえてネガティブになることでうまいことハードル下げてたんですかねえ。
ならやっぱり今までのままで…いっか?